『幸せ』とは「自分のまま」でいること <348/365>
※この日記は1年365日間、連続更新に挑戦中です。<継続>を誓って、今日で348日目。
雨の東京。静かな夜。
わたしは今日も元気に日記を書いている。生きている。この営みのベースに空気の満ちる、秘かで穏やかな歓びを「幸せ」と呼ぶのならば、やはりわたしたちの存在そのものが「幸せ」で出来ているのだろうと思う。
多くの人たちが「幸せ」を求めて、どこかへ向かおうとする。無いものを求める。今の自分ではない何者かになろうとする。それはまちがいなのではなくプロセスなのだろえ。
「幸せ」の在りかは、まさに近すぎて見えない。何よりも、体よりも心よりももっと、自らの核心に近いところにある。
ただ、本物の自分として「存在」した時、花が開くように全開になる。
わたしたちは懸命に不完全な振りをしている。全力で自らの本質を塞き止めている。そんな簡単なことではないはずだと思い込む。
今のこの時代の流れは、たぶん、最短で幻想を打ち砕いて、わたしたちを本質に目覚めさせるエッセンスを含んでいる。
時代を憂うなら、その憂いが生まれてくる源を見つめよう。憂うことで、必死で隠したいもの、逃れたいことは何だろう。ここからの時代はかっこつけても始まらないのだ。たぶん正直になったもの勝ちだよ。
ユリ:yurixlovemax@gmail.com