LoveRocks

愛がロックする日々。感じたこと、思ったことを綴る。

『しあわせ』の実体 <270/365>

ろくでもなき、すばらしき自分よ。
今日もわたしは生きている。紛れもなく、100%、生きているぞー!うぉー!!!

と。謎の雄叫びをあげたくなるほどに、今日もわたしは元気だ。体があちこち痛くって、寝不足だけど、身体の不調と「元気」はまったくの別物なのであーる。比例しないのだ。そして「しあわせ」はさらに、遥かなる彼方、どこふく風、決して揺らぐことなくここにある。わたしの心臓よりも、もっともっとそば近くに。

ていうか、最近わたしは思うのだ。
「しあわせになりたい」とか「しあわせになるために」とか。はるか昔、(いや、ついこの前まで?)わたしもそう思っていたけれど、そのテンションで想い描く「しあわせ」って、今わたしが感じている「しあわせ」とは、いちばん遠いものなのではないかと。

追い求めたり、がんばって掴んだり、さらにがんばって維持したり、得たり失ったりするような、揺るぎあるものが「しあわせ」だというならば、むしろそれ、要らなくないか。ていうか、それこそ、正真正銘の「苦しみ」なのではないかと。

豊かな暮らし、健康な体、みんなに愛され、認められ、いろーんなことが思い通りになって、その状態が安定して、ずっと続いていくことが「しあわせ」だというならば、それは嘘だ。正気の沙汰じゃない。本気だというなら、それは「人はみんな死ぬけれど、わたしだけはいつまでも死なないの☆」と本気でいっているのと同じことだと思う。

生きるということは、いつか死ぬということだ。ネガティブだとか、縁起でもないとか、そんなことじゃない。単なる現実だ。老いたり、病んだり、わたしたちはある意味で、死に向かって、手にした全てを、なすすべもなく失っていくのだよ。そのときには「しあわせ」も失うのだろうか。一生添い遂げてもくれないような、脆く、儚く、頼りないものが、ほんとうに、わたしたちが求めているものなのか。

追い求める、その逆に「しあわせ」はいつもある。自分以外になることの一切をあきらめたとき、今の自分に全集中するとき、そして、自分自身に、ただこの上なく正直になるとき、「しあわせ」はわたしたちを抱く。逃れようがないくらいに強く、圧倒的に。

禅問答のようだけど、「しあわせ」は探すのを止めたときに見つかるというのは、有名なお話し。
なぜなら、わたしたちの正体こそが「しあわせ」だからだ。
神は大いなる「しあわせ」をもって、わたしたちを創った。これもまた、有名なお話し。

さて、そろそろ、大いなる「しあわせ」をもって、南蛮漬けをつくろう!(笑)