LoveRocks

愛がロックする日々。感じたこと、思ったことを綴る。

両手を広げて、めいっぱいの「豊かさ」を掴もう <126/365>

東京は冷たーい雨の日。
新しいモコモコの靴下があったかくて気持ちいい。
わたしが季節相応で、なおかつ気分が上がるようなお気に入りの衣類を自分のために用意できるようになったのはここ最近のことだ。まったくどれだけ自己受容が低かったことか...寒くても暑くても、多少はがまんすればいいじゃないか、服装でキレイに見せようとするなんて...なんだか恥ずかしい、身の程知らずだ、と思っていたのだ。なんて怖ろしい...あの厳しいロッテンマイヤー女史でさえ、ハイジにそんな仕打ちはしなかったというのに...

人は自分自身に果てしなく厳しくて、残酷、冷酷であったりする。そらにそれを美徳のように思っているところがある。人に譲ること、謙遜、自罰的であることが「正しい」からそうしなくちゃという感覚がある。自分で自分を罰していれば人から責められたり、傷つけられたりすることはないと思っているのかも知れない。

わたしは自分の意志で、冒険的に、この命を全うしようと思うほどに「豊か」にありたいと思うようになった。
相応しくないことはしない。自分を野放しに、楽な方や過去の惰性で生きたくはない。
わたしはどんどん自分に厳しくなっていると思う。自分をいとしく、かけがえがなく、大切な存在だと感じるほどに、ビシビシいけるようになってきた。そして、その変化が心からうれしい。わたしの人生がようやくほんとうにはじまったような気持ちでいっぱいだ。

ここまで50年弱もかかったけれど、遅かったとは思わない。いくつになったって、いつだって人は変われる。成長しつづける。目覚める。生きているということは、大いなる体験の途上だということ。そして、無限の可能性と中にあることだとわたしは思う。「年をとったらただ力を失い、衰えて死んでいく」というような考えは迷信だ。この現実の中で、目に見えて「何を成すか」みたいなことばかりを重要視するのは、あまりにアンバランスだと思う。
だから、年長者の方々よ、どうか自分として成長することをやめないでほしい。自分としてほんものになっていくこと、その生を全うすることの凄さを、若輩者たちにみせつけて、「俺らまだまだだなー」と思わせてほしい。それがどれだけ「これから」という世代を生きる人たちの希望になることか...!

今日は「豊かさ」について書いてみようと思っていたのに、思い浮かぶままに書いていたら予想外の方向に向ってしまったぞ(笑)

そう、最近思っていることがあるの。
わたしたちはうっかり目に見えるもの、物質的なもの、何かの役に立ったり、お金を生み出したり、人から評価されるようなことを求めがちだ。そういう類のものって、本来はすべて「結果」なんだと思う。
たとえば「自分にとってのほんとうのしあわせ」を生きたいと思うとき、いきなり「お金がたくさんほしい」とか「甲斐性のあるイケメンと結婚したい」みたいなことに向うことがあるけれど「ほんとうのしあわせ」を生きたいのなら、自力でそれをはじめることが先なのは一目瞭然だよね。物理的なことってそのプロセスの「副産物」として、必要とあれば案外自然についてくるものなのではないか。この手を開いて、よろこびのままに受けとればよいのだなーと。

今までわたしはどこかで物質的な豊かさを軽視していたけれど、なんかそれもアンバランスで、開いてないなー、生きてないなーと思うようになった。この世界の「豊かさ」をめいっぱい楽しみたいよね!寒さをがまんしたり、雨がつづいたら着る服がなくなっちゃうことを心配したり、びしょ濡れになりながらコインランドリーまで行って服を乾かしたり...そういうの、充分やったからもういいや。来月のわたしの誕生日にはコンパクト乾燥機を買ってあげよう(笑)

自分を崖から突き落とせる厳しさと、自分を目に入れても痛くないほど可愛がることの「源」は同じなんだなぁ...「愛」とは深し、そのレベルは無限だ...ああ、どうしようもなくワクワクするぜ!