LoveRocks

愛がロックする日々。感じたこと、思ったことを綴る。

「自分しあわせ道」について <147/365>

のーーんびりを堪能しまくる休日。
さーーーて、夕食前のひととき...今日は予告どおり「自分しあわせ道」について書いてみよう!

まず最初に書いておきたいのは「自分しあわせ道」という言葉は、昨日の日記を書きながら急に思いついたものだということ。そう、完全なる思いつきなのだけど「なんとしっくりくる言葉だ!」という歓びと「わたしが日々あれこれと取組んでいる、なんともわかりづらーいぜんぶがこれですっきりとあらわせるのでは!」みたいな閃きがあった。ああ、ついに表現力が開花したのだろうか...わからない、わからないけどうれしいと思った。聖書に書かれている「はじめに言葉ありき」とはこういうことなのか...ちがうかも知れないけどそれでもいい...はい、前置きながすぎるよね...とにかく「昨日急に思いついたの!」ということだけは、この多大なる歓びと共に書いておきたい。「言葉ありき」というはじまりがあるということを。

「自分しあわせ道」とは、超シンプルにいうと「自分をしあわせにできる自分になる」ということだ。
他人にも、環境や状況や、気分とか転機にも左右されない。いや、厳密にいうと「左右されてもいいよ」と思えるようになる感じだ。どんなに揺れてもぶれても、大いなるわたしの御胸のうちのこと...病めるときも老いるときも、哀しむときも怒れるときも、どんなときも自分を愛し、敬い、その命在る限り真心を尽くすことを誓いつづけている感覚だ。その感覚の中で生きるよろこび、しあわせときたら、もやは何にも左右されようがないのだよ。たとえば誰かに「おまえなんか嫌い!」とかいわれてもへっちゃらなのだ。傷ついたり、悲しかったり、むかついたりしたらなら「しめしめ、こっちのもんだぜ」と思うだけだ。その体験を通して、また深く、わたしは自分を知ることができる。「嫌い」とか言ってきた相手のことはどうでもいい。今は思えなくても、最終的には「ありがとう...!(涙)」と思うんだろうなーーと予感するだけだ。だったら先に「おまえ嫌い!」「(ガーーーン!!)...おう、ありがとう!」でいいかも知れない。(まだぜんぜんその域にはいけないけど)

ここまで生きてきた人生のこと。
そして、今、自分がなにを思い、なにを感じて、なにを願い、なにをよろこんで生きているのか。
今、ここに「生きている自分」それはどんな存在なのか。どういう感覚なのか。
世界広し、宇宙広しといえども、どんなに探し回ったとしても、自分のすべてを理解してくれる存在は自分しかいないんだよね。
それがほんとうにわかるまで、わたしはとても長い間、それを外の世界に探して探して、不安で心細くって淋しくて「この人かも!」と思ったけどちがうということをくり返して「こういう自分だからダメなんだ。愛されないんだ。認めてもらえないんだ。理解されないんだ。自分には価値がないんだ」と内の世界を攻撃しまくっていた。それから根拠のない「こういうふうにならないとダメ!」という謎の理想像が山のようにあった。なんという苦しい人生!よくぞ生き抜いてくれた...自分よ!そして、その最中を生きる人たちへ...やり切れ!がんばれ!その闇はぜったいに明けるぞ!!と思う。

自分の闇を照らせるのは自分だけだ。自分をしあわせにできるのも自分だけ。
外から何かが起こって、自分がしあわせになったり、不幸になったりすることはないのだ。逆だよ逆!自分の内が外に何かを起しているんだよ。そのからくりを知って、自分の現実、自分の世界に「創造主」として在ることこそ「自分しあわせ道」の王道ともいえるかも知れない。今日もまた、書きながら「なるほどねー」などと思っているわたしなのであった。