LoveRocks

愛がロックする日々。感じたこと、思ったことを綴る。

自分の「行い」をみる <266/365>

わたしは日常の中で、どれだけ多くのことを「無意識」でやっているのだろう。

インドの瞑想マスター・OSHOの『存在の詩』という本を読んでいて、「行為」と「行動」のちがいについて書かれている章に釘付けになっている。超面白い!

「行為」は、現瞬間の状況に対する感応。静かな心からくるもの。全体性があり、創造的。例)お腹がすいたからご飯を食べよう。

「行動」は、過去から続いてきた落ち着きのなさを現実に注ぐようなこと。落ち着きのない心からくる。利己的で破壊的。例)お腹はすいてないけど何か食べたい。

今、自分がやっていることはどっちなのか…と、見てみると、なるほど、わたしの場合、「無意識」でやっていることの、ほとんどぜんぶが「行動」だわーと思った。
正気であればできないこと…面倒なことを後回しにしたり、多大な時間を動画をみることに費やしたり、体調を崩すほど飲酒したり、その場を取り繕うために適当なことを言ったり、やったり。あの後味がスッキリしないやつがぜんぶ「行動」なのだな。
それから、頭で、後先のことを考えてやることも「行動」なのだろう。「こうしておいた方が賢明(安全)だから、今これをやろう」みたいなやつ。


ここで気を付けるべきは、「行動」が悪、いけないことで、「行為」こそが正しい、みたいな切り分け方だと思う。

こうしてメジャーどころの覚者と称される方々の本を読んでいると「これは…たぶんちがう解釈をされて、世に出回っているのでは?」と思うことがある。「これが正しく、これが間違い」という観点でまとめられているときだ。
たとえば、「欲があってはいけない」などと、覚者はひとことも言ってないのだよね。「自分の中の欲を、在るがままにみなさい」と言ってるのだ。仏陀もキリストも、みんなそこからはじめたのだよ。と。


わたしは今まで、思考パターンとか、そこから生まれる感情とか、精神的なことばかりをみつめてきたけれど、これからは、いよいよ「行い」を含めてみていくときなのだと思う。ああ、怖い。だけど楽しみ…怖いの向こう側に「ほんとう」が待っていることを知っているから。
自分にとって鍵を握るのは、怖さ、苦手、ずっと避けてきたものだ。かなりのエネルギーを注いで、逃げ回ってきたもの。そこに宝の山が隠されている!

なので、わたしにとって「行為」と「行動」のちがいは、自分の「行い」を眺めるのにとてもよいヒント&ツールだと思う。お勉強はじめてよかったぜ!

いやいや、わたし、見事なまでに「無意識」で生きているなぁ。不完全バンザイ!止めるのではなく、変えようとするのでもなく、ただ自分の「行い」を在るがままに眺めてみるのは面白い。