LoveRocks

愛がロックする日々。感じたこと、思ったことを綴る。

「自分軸」とは <217/365>

今日はお休み。
つかれに身を任せて、眠りたいだけ眠ってしまう…はあぁ、しあわせだぁー。今年こそはストイックに、縛りのある生活習慣を身につけようと思いつつも、行うは難し。安楽にひたる1日であった。しあわせだ…

なにがこんなにしあわせなのかしら。その答えは至ってシンプルだ。生きている「今」が楽しくて、うれしくてたまらないからだ。
体が動くこと、目が見えて、ごはんが美味しくて、歌えるの!喋れるの!伝えたいことを言葉にできるの!他者同士として、誰かと響き合えるの!!そして、文章が書けるのだよ。死ぬまで好きなように書いていいんだよ。あぁ、なんということだ!その上、家族、友達、大好きな人たちが、今、生きてくれていること。そのかけがえのなさは無限である。

こうしてしあわせの理由を上げたらきりがなくて、その中を生きる限り、今、わたしがやっていることはなんであろうと「ほんとうにやりたいこと」なのだろう。そんなことを思った。

世の中には「ほんとうにやりたいことをやった方がいい」とか「自分のやりたいことが何だかわからない」的な迷宮が存在する。
わたしは長年そこを彷徨いに彷徨った。その根底にあるのは「今の自分、現実ではダメ」という思い込みと「心の底からしあわせに生きたい!」という切なる願いだったと思う。その2つは切り離せないと思っていて「今とはちがう自分にならないと、しあわせになれない」と、闇雲に信じていた。「今とはちがう自分」とは、他者から認められる自分ということだ。たくさんの「いいね!」がもらえるような自分、他者の助けになり「勇気をもらいました!」などといってもらえる自分。「承認=しあわせ」だと思っていたのだわ。それは叶えられるほど、自分を満たさないとわかる。

「自分軸」といういい方があるよね。
回りに囚われず、自分の信念で生きるという意味らしい。
わたしが思う「自分軸」は、『自分(人としての自分、エゴ含、死んだらたぶんお別れ)』と『ほんとうの自分(本質、魂、神のミニチュア、死んでも普遍)』のコミュニケーションが万全で、ちゃんと機能してる状態のことだ。
自分(人格)のボスが自分(魂)であること。その状態の満たされ感を知ると、まず他者からの「承認」などはどーーでもよくなってしまう。

大好きな坂爪圭吾氏が「気にするなら『人の目』よりも『神の目』」ということを書いていた。なんて素敵な言葉だと思った。そして、そのどちらの『目』も自作自演、自分の中にあるものだよな。

久しぶりに時間があったので、思うままに長々と書いてしまったけれど…何が書きたいかというと、今日もわたしはやりたいことを、思う存分やったね!生きたね!しあわせだねーー!!と、それだけなのだった。