LoveRocks

愛がロックする日々。感じたこと、思ったことを綴る。

「赦す」という資質 <216/365>

今日もゴキゲンに出勤する。
東京はひんやりとした曇天。こうみえても、わたしの内側では嵐が巻き起こっている。新しい仕事のもろもろに対して、わたしのパターンたちは、やいのやいの、抗議しているのだ。主に「なめんじゃねーぞー!」「筋を通しやがれ!」的なやつである。それをわたしは、青空みたいにおがやーーかに、優しい気持ちでみている。そう、これでいいのだ。自分の内に起こること、その何をも変えようとする必要はない。コントロールはいらない。あるがままをみること。あまつところなく知ること。そして「赦す」ことだ。

実は、ひねくれもののわたしは、ずっと「赦す」という言葉が好きではなかったの。なんだか偉そうな感じで。
「自分を赦してあげましょう」みたいことも、なんだか嘘っぽくてむず痒いなどと思っていた。
けれど、ほんとうは全然ちがうのよね。そんなレベルのお話ではないのだと知る。「赦し」とは、神様の在り方に似てる。「生きること」そのもののをあらゆるすべての局面から、丸ごと肯定して敬うような境地だと思う。決して緩くも甘くもない。すべての罪をなんなく背負っていったイエス・キリストのように。

東京では、今日もコロナ感染者数の記録が更新されたそう。わたしはコロナ渦の重苦しーい不安、その原因のひとつには「赦し不足」があるのではないかと思っている。

絶対にコロナになってはいけない。
なったら負けだ。
みんなで力を合わせて戦おう!
コロナに勝とう!

…ねぇ、そんなふうに考えていたら、ものすごーく大変ではないか?

わたしたちは必ずいつか死ぬけれど、死は「悪」ではないし、負けでもない。単なる自然の摂理だ。同じようにコロナは「敵」ではない。
こんなことを書くと「コロナで亡くなったり、とっても苦しんだり、大切な人を失くした人もいるのに不謹慎ではないか?」と思う人がいるかも知れないけど、そういう中途半端な同情は無礼だと思う。とてつもなく悲しい出来事も、当事者たちは果敢に受け入れ、最中を生き抜く。その勇姿を憐れむのはお門違いではないのか。

わたしね、他者にも自分にも、等しく伝えたいことがあるのだよ。
思う存分生き抜いて、そのときがきたら、堂々と、安心して死んでいいよ。
ちゃんと気をつけるけど、コロナにかかるときはかかるだろう。それだけのことだ。堂々と、安心してコロナにかかっていいよ。
誰が赦さなくても、神様はぜーーんぶ、赦しているんだもの!そして、わたしたちの正体は神様のミニチュアなのだから、ほんとうは同じことができるのだよ。同じものでできている。