LoveRocks

愛がロックする日々。感じたこと、思ったことを綴る。

嫌いなまま、愛してる <230/365>

よくいく駅前のコンビニは、駅前であるゆえにかなーりコンパクトな店舗で、入口からの通路、レジ前、出口への通路のすべては、誰か1人が立ち止まれば塞がってしまう。(敬愛なるマツコ・デラックスさんは通れないのでは?と思うほど)

杖をついた年配の男性がレジへと向かう。一歩、一歩、その歩みは亀の如しである。いや、大袈裟ではなくほんとうに。人はこんなにも少しずつ歩けるものなのか!と思うほどだ。そして、ジリジリと急いた人々が、二の足を踏みながらその後へ続く。世にも不思議なパレードが店内を練り歩き、通路を埋めつくす。コントみたいだけど、もちろん誰も笑わない。ひたすらに急いている。東京では、駅の改札とか階段とかでもよくみる光景だ。

パレードに参加しているとき、せっかちなわたしは、闇雲に苛立っている。亀じいさんに激しい怒りを覚えたりもする。そして、老いることはかっこ悪いく、嫌なことのように思えてきて、生きていくことを軽く怖れたりもする。

買い物を終え、パレードから解放されたわたしは、パンパンに膨らんだレジ袋を抱えて歩道をゆく、亀じいさんの後ろ姿をみた。一歩、一歩、確かに、堂々と歩む、その姿をかっこいいと思った。生きるってすごい…じいさん、生きてくれてありがとう、そして、ともに(生きることを)がんばろう…!そう思って泣けてきた。

ついさっき、怒りの矛先だった相手に、今は「神」を感じている。その急転直下な変わり身を、わたしは「これでいいのだ!」と思う。

怒りは、夕立みたいなもの。
好きも嫌いも空模様だ。
ほんとうの自分は揺るぎない。何が起こっても消えも隠れもしない、燦々たる青空と、中心の太陽である。
嵐にも、夕立にも、どんな空模様にもびくともしない。それが自分の「本質」であることを知っている。そして、「本質」だけがわたしを動かし、生かし、運んでいくのだもの。感情も、好き嫌いも、ゆったりと、安心して眺めていたらいいと思う。

自分も人も、「好き」になることの延長に「愛」があると思っていたけど、ぜーんぜん、そんなことはないのだよね。「愛」とか「敬意」とか「赦し」は神様の資質。好き嫌い、感情は人口的な反応。次元がちがう。そう、まったく別のお話なのだ。

嫌いなままでも、愛している。
怒ったままで、敬っている。
感情がどうであろうと、いつもすべてを赦し、慈しんでいる。
それが、生きとし生ける、われらの生命、存在そのもののほんとうの姿だと思うのだ。
だからね、大きくすべてを信頼して、安心して、もっと冒険して大丈夫!今日はそんなことを思った。亀じいさん、ありがとう!