LoveRocks

愛がロックする日々。感じたこと、思ったことを綴る。

わたしはわたしの羊飼い <196/365>

わたしは『思いのまま、自由に生きる』ということを「気分次第で生きる」ことだと、ほんとうに長いこと思い込んでいた。
それと、思いのままに生きるられること、つまり、自分の思い通りになることが『しあわせ』なんだと思っていたのだよね。
不思議だね…今はどっちでもいい。思い通りにならなくて、くうう…となることも、まあまあ好きだ。そしてこの、まあまあ好きだと思えることが、なかなかにうれしい。くうう…となることはぜんぜん駄目じゃない。ネガティブ系の感情は、わたしの中にどんな「怖れ」や「痛み」があるのかを教えてくれるもの。感情に応じて、心を揺らすことはない。逆に、心を水鏡のように保つとき、感情の奥にあるものがハッキリとみえる。みえれば理解しやすくなる。理解とは受容、そして、愛だと思う。

さて、気分のまま、感情のままに生きることから足を洗ったわたしは、自分の中の『リーダー』的資質を意識して使うようになった。人様にではなく、自分自身に対してね。「なに?日記を書く気分じゃない?ああそう。いいから書きなさい」というやつである。やると決めたことはつべこべ言わずにやりなさいという厳しさ。もう選ばないと決めた思考パターンにふらつくことを赦さない厳しさ。この鞭を使えるようになってきて感じるのは、心が整ってきたことだ。
いつも自分のどまんなかにパーフェクトな羊飼いがいてくれる感覚。なーんにも心配しないで、自由に牧場を駆け回れることのよろこび、そして、しあわせ。

『主はわたしの羊飼い』という詩編が大好きだ。主とはキリスト教で神、またはイエスの愛、スピリットを指すのだろう。そのすべては自分の中ある。絶対なるもの。どんなに時が流れても1ミリも変わらない、そう、それだよ。「胸に手を当てて考えてごらん」と言われたときに向き合う、そのいちばん奥にあるやつ。死んでもなくならない、この上なく神聖なやつ…そう、それだよ。
わたしは自分の中のそれに従って生きるとき、しあわせだと感じるのではなく、自分が「しあわせそのもの」になるのだった。