LoveRocks

愛がロックする日々。感じたこと、思ったことを綴る。

今限定の自分だけの「真実」はなに? <180/365>

つまるところ...
「ほんとうの自分」ていうのは、この人生が終わってもぜんぜん終わらない、むしろ明らかになる「本質」「魂」のことだと思うのです。
そして、わたし自身は、その部分を学んだり、深く探求するにつれて、それは全体の一部、限りない多面体の一面だと思うに至ったのでした。
正しいとかまちがいとかはどうでもよくて、今のわたしにとって最上級にしっくりくる「真実」だというだけなのですよ。「真実」だと感じるものは、ずーーーっと一定じゃないといけないとは思わないし、自分の変化とか段階に応じていくらでも変わっていいと思う。

そもそも「真実」というのはプライベートなものだ。
人の数だけそれがある。みんなそれぞれにちがう。
答えも道も1つじゃない。

しあわせの青い鳥を見つけにいく旅を「結局、自分ちの庭にいるんだったら、旅に出なくちゃよかったのに。無駄足だな」などと思わないことと同じ。
「見つける」と自分で決めて、自分の意志で旅立ち、自らの力で旅を続けるからこそ、庭で見つけた青い鳥が「真実」になる。

今は聖人、偉人の格言などがツイッターとかネット上でも読めるし、旅路の果ての「答え」や「結論」だけが簡単に読めてしまう時代だと思う。
だけどそれを読んで、わかったつもりになってしまうのは、まこともったいなきことだと思うことがある。
人は「知ってるし」と思っているときが、いちばん何も学べないときだ。
誰かの話を聞いて「わかるわかるー」などと言うときほど、実は何もわかっていない。さらには、目の前の人を見ていない、聞いていない、感じてないときだったりする。

答えも道も、真実もしあわせも、失敗したり、あえて真逆に突っ走ってみたりを体験しながら、
自分で「見つける」ことに意味がある、それこそが生きる醍醐味だと思ったりするのだった。

だから、間違ってもぜんぜんいいと、わたしは思うのだよ。
ていうか、ほんとうのところ、「間違い」なんてあるのだろうか。
いつか死ぬときとか、死んでしまったときに「我が人生」をふり返ったとしたら「間違えたこと」などを後悔する気はぜんぜんしない。基準はおそらく、せいいっぱいやったかどうかだ。かけがえのない日々に、どのくらい丁寧に、真心込めて、向き合ったかどうか。「自分」というこの人生の相棒を、大切に育み、理解し、敬い、愛したかどうかだと思う。

今、自分が「これこそが真実だ!」と思っていることを、すっきりさっぱりと明確にしていくことは「しあわせ道」を行く大切な条件の1つかも知れない。
自分にとって何がいちばん大切なのか、何がしあわせなのか、いちばんの核、「最上級の真実」は何か...自分に問いかけたらよいです。それがわかると何にも惑わない、揺らがない、自分だけの柱ができ、優先事項がわかってくると、生きることが格段に楽になるのだと思いました。