LoveRocks

愛がロックする日々。感じたこと、思ったことを綴る。

自分という「無限性」の中の一角 <171/365>

今日は仕事明けのビールがむやみに美味しくって、ハイピッチで飲み進んでしまい、もはや日記を書けるようなモードではない。
「ああ、わたし、日記を書けるようなモードじゃないなぁ...」と思ったら、なんだか逆に燃えてきたぞ。「書けるようなモードじゃないわたし」は、一体どんな日記を書くのだろう。そして「決める」ということのパワーのすごさを思う。ただシンプルに1年間日記を書き続けると決めなければ、今こうして日記を書いているわたしは存在しない。自分の中の「決める」&「決めたことをやる」というコンビが生み出す力と可能性は無限大だ。わたしはそうして、自分のいちばん揺るがないところ、内奥、どまんなかからあふれるひそやかな感覚をくんで、決めたり、動いたりしていくことが楽しい。楽しくて楽しくて、日々自分のまんなかが「よっしゃー!」と感じるとこを積み重ねているうちに、気づきはじめたことがある。

もしかすると人って、すべてがすでに決まっているんじゃないのか…ということ。
どまんなかストライクの答えというか、道というか、あらすじというか、青写真みたいなものは、もうある程度...いや、実はハッキリと決まっているんじゃないのかな...と思う。ユリの花はどんなに血迷ってもバラとしては咲かない。その逆もまたしかり。それと同じように、どまんなかにある「ほんとうの自分」というものが、悠久の転生をくりかえしくりかえし、どうしても拡大したいものがある。それは全体の一部であり、たったひとつの局面である、かけがえのない「自分」というオリジナリティ...としか今のところ言いあらわせないけれど、きっとみんなが全体の無限の角度の一角を担っている。その一角を極めることは全体を拡大する。彩り豊かにする。

わたしという一角は、きっと放つカラーは決まっているんじゃないか。
そのカラーを鮮やかに煌かせ、全体と調和し、響き合いながら拡がる...そのプロセスがぎゅーーっとつまったものがすでに完璧な形であって、それを時間軸という、ある種の旅の中で体験することが人生なのかもしれない。

なのでわたしたちは、自分をどうにかして成長させようとか、よくしていこうとか思わなくていいのかも知れない。
きっとそういうのを、どんどんどんどん体験しつくして、気づいて、外していくことだ。
「すでにそうである」ことに抵抗するすべてから学び、生かし、愛をもって解放していくことだと思った。

自分という、その無限性の一角を...
わたしは今、この人生でほんのひととき、あずかり、任せられているように思う。
そして基本は、わたしを通して、それがどんなふうに展開されるか、身をもって目撃することだ。ただエキサイティングに眺めて、楽しめばいいのだ。そんなことを思いはじめているこの頃...今日も書ききったったよ。晴々。