LoveRocks

愛がロックする日々。感じたこと、思ったことを綴る。

<本質>から外れていると思うとき <82/365>

まだまだ自宅待機中。
よくもまあ、と思うくらいによく眠った日。
久しぶりに自分の<どまんなか>に身体と心の中心がカチッとはまった。フル充電、元気MAX、しあわせ度無限大である。
このカチッとはまっている状態を「センタリング」という。

ああ、なんというシンプルさだろう!
自分の<本質>に繋がっているかどうか。究極の「俺か、俺以外か」(Byローランド)である。

そして、今回そこからでっかく外れた!!と思いながら過ごしたことで得た、でっかい収穫について今日は書いてみたいと思う。


日記を書きつづけるってほんとうに面白い。
しかし、昨日までのわたしは「なぜこんなつまらんものをわざわざ書いて公表までしちゃてるんだろう...生き恥を晒すだけじゃないか...誰得なんだよ...」と涙交じりの弱々しい呟きが、氷雨のようにさめざめと降りつづいていた。日記を書くことで、自分が今どんなコンディションであるか、隠したり、ないことにしたり、素通りしたりできなくなってしまう。き、き、きびしいっす...(泣)

だからといって、日々の中でリアルタイムでそのありのままを書くことはできない。ぜーんぜん無理なのだ。
文章にするということは、今の気持ち、状態、今の自分に「名前」をつけるようなことだとわたしは思っている。「名前」をつけるにはそのものを客観的にみること、理解すること、自分の内に受け入れることが必要で、それをしないと偏った「レッテル」(決め付け)になってしまう。それではスカッとしないのよ。わたしはヒロトとかマーシーがやっていたみたいに、晴れ晴れと心を解き放って、さらにギュッと抱きしめるみたいな、自分にとっての「真実」の代弁者、名づけ親でありたいの。

それでも日記を書こうとすることで「うおお...とても書けねえ..!」と思っている自分と向き合う。「書けない」と思っている内容を理解する。感情を受け入れる。「今、わたしはキツイ...そして、自分の<本質>に繋がっていない。コンセントが外れているのだ!」と思っている自分を見続けていた。

わたしが識ったところ、感知できるところまでが、わたしの「世界」である。
以前からそんなふうに思っていた。
わたしの心とか感覚が強く反応するもの、惹かれるもの、嫌がるもの、歓喜するもの、怖がるもの、それらをつかって存分に遊んだり、挑んだり、鍛錬したりするだけでこの人生は充分すぎるほど満ち足りていて、別の何かを探そうと意識を「外」へ向ける必要はない思ってたし、今もそう思っているなーと思っていた。

そんなふうに自分を観察していたら、何だか急に「わたしが思っている、その<外>ってなんだよ?!」と思った。
「外れている」と思っているこの感覚はほんとうなのだろうか...ううん、ちがうな、何かがすごくちがう。

「外」とか、「<本質>から外れる」という状態があるとしたら、わたしがわたしの世界を充分に生きていない、狭めている、単に手抜きしてるだけなんじゃないか...!

わたしはわたしである以上、わたしの<本質>の外へ出ることなんかできないのだ。どこまで行っても猫は猫だし、おたまじゃくしはカエルになったらもう死ぬまでカエルじゃないか。おたまじゃくしには戻れないじゃないか!(?)

バシャールは、人は「道」の上を進んでいくのではなく、自分自身が「道」そのものであるから、道から「外れる」ことはできないと言っている。
わたしが「外」と思っているところや、「外れた」と思っているところも、ほんとうはわたしの内である。ただ、わたしの世界の中の、未統であり、未開の地であるということだ。
ていうか、わたしという存在のでっかさや、その<本質>のスケールをなめるんじゃねーぞ!ということだ。すべてはお釈迦様の手の中である。己の<本質>はあらゆるすべての一部であって、そのミニュチュアなのだ。「外れる」なんてことができると思う方がどうかしているというものだ。

「なんかダメだ...センタリングできない...」と感じることがあるならば、今まさにわたしの世界が拡がる...いや、すべてを<どまんなかの愛>、自分の<本質>で統べるプロジェクトが進行形であるということではないか!
そのプロジェクトことが、わたしがいちばんやりたいことなんだろう?そうなんだろう?ちがうのか、おい!

ちがわないし、それだけしかやりたいことないっす...!(涙)