LoveRocks

愛がロックする日々。感じたこと、思ったことを綴る。

おまえならできるとわたしは知っている <47/365>

今日は親友との電話を終えて、伝えきれない想いがあったのでここで書いてみようと思った。
それは「わたしは知っているぞ!おまえならぜったいできるということを!!」という想いだ。

目の前にある自分の現実に「望むところだ!」と覚悟を決め、真剣に向き合うとき、人はその熱量とおなじ分だけ学び、大きくなるのだと思う。「自分が贈ったものが、何倍にもなって還ってくる」これは宇宙の法則だ。そしていつでも肝心なのは、量よりも質である。「真剣」を込めて生きるとき、人生はいつだって、わたしがわたしを極めるために必要なものを、これでもかってほどに還してくれる。そのリターンがあふれて関わる人たちまで響いていく。その余響でしか伝えられないものがある。

今日の電話ではそんなことを感じたよ!
わたしたちは知り合ってもう...30年以上か!
ずっと「おまえならぜったいできる!」という最強の絆で繋がってきたよね。
ここからの人生、お互いにいちばんおもしろくて、おいしいところなのではないかな。ともに死ぬまで昇っていこう!大きく花開く今の自分を、ずっとずっとお互いに誇り会っていこう!

***

ところで...
わたしは、生きることは「苦しみ」ベースであると思っている。
生活にまつわることはたいへんなことばかりだし、懸命に生きる中で手にしたものを次々と容赦なく失って死んでいくのが定めだ。ああ、なんという非情さ!「生きることになんの意味があるのだろう」と嘆くことはまったくもって正常の証であると思う。

わたしは変態なのかも知れないが「こうなったらとことん苦しんでいきるぜ!」と思ったことで、あらゆることがすっかりと楽になってしまったのだ。「苦しまないようにしよう」と気をつけることこそが苦しかったのだと思う。猫として生まれたのに喉をゴロゴロ鳴らさないように気をつけ、ぴょんぴょん動くものに飛びつかないように必死で目をそらしていた感じだった。それはそれは不自由で、人生(猫生?)の半分の謳歌できないだろうよ!もう何十年もそんな状態で生きていたと思う。

そして、「苦しみ」のほどんとは、自分の頭が考えた「想像上の存在」だったことを知った。
無抵抗の丸腰で「苦しみ」のどまんなかに飛び込んだとき、それは予想していたものとはぜんぜんちがう。
高い飛び込み台から真っ青なプールに飛び込むときみたいだ。踏み切り台から離れた瞬間「怖さ」が消え去って、ただただ全力で水面に向かい、泳ぎきる。無心で、清々しい状態。あんな感じだ。

「おまえならぜったいできる!」と、わたしはわたしに言いつづけている。
そして「苦しみ」や「怖れ」のどまんなかへ自分を突き落とすという荒業をおぼえた!

頭で考えていることはほんとうではない。
わたしの本質はそんなところにはぜんぜんおさまらない。はるかに超えたスケールにある。
頭で考えたことに従うのはもうまっぴらだ。だまされないぞ!と思う。

頭や身体は、わたしがつかうものだ。
感情とは、わたしが味わうもの。わたしの本質ではなく、そこに主導権はない。

頭、身体、そして感情。
この子たちとの長年関わり方を、わたしは長いことまちがえていて、すっかり振り回されてきたけれど、この密なつき合いも生きている間だけのこと。死んでしまえばお別れなんだな…そう思うとすべてがかけがえなく、味わい深きものだと感じる。そのすべてがいとおしく、光り輝いてみえる。残りの人生、少しも逃すことなく誠心誠意をつくして、真心で関わりたいものだなーと思う。

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今日の日記は書きたいことを、思いついたままに羅列してしまったけど「うまく書こう」と思わない日の日記はほんとうに楽しい。