LoveRocks

愛がロックする日々。感じたこと、思ったことを綴る。

まちがわないことよりも大切なこと <138/365>

今日はどういう訳か「日記を書きはじめてよかったなぁ」と感じている。
新しいステージを歩みはじめたり、新しい習慣が身についてきたりすると、いつもわたしはその前の自分の感覚をキレイさっぱりと忘れてしまう。

毎日日記を書きつづけてる138日間、大波小波の差はあれどなかなかに大変だと思うことが多い。だけどその大変さは「文章を書きたい」と思いながらも、なぜかどうにもこうにも書きはじめられないまま、時間だけがどんどん流れていった、あの時期の大変さとは比べものにならない。

あの頃のわたしは今とか比べものにならないくらいだらけていて、ナマケの限りをつくしていた感じだ。今のここに生きている自分の命とか体力とか、それを育んでくれたたくさんの人たちの真心、いつも応援しあい、支えあい、繋がりあっている家族や友達からのあたたかい絆までも、経過する時間と一緒に無駄に捨て去っているような罪悪感があった。申し訳なさがハンパなかった。そんなに大変なら書けばいい、やればいい、がんばればいいじゃん!!と思うのだけど、そうは問屋がおろさなかったあの時期...自虐行為よ、ここに極めれり...とさえ感じていた。だけど、今思うと極めてよかった。極限まで苦しんだあの経験が、なりふり構わない挑戦への突破口を開いたのかも知れないと思う。

わたしには、ものすごーく極端を好む思考パターンがある。
正しいか、まちがいか。少しでもまちがっているなら、すべてをやめてしまいたいと思う。やるなら完璧にやりたい。完璧にできないならやりたくはない。染みがついた服はすぐにでも捨ててしまいたいし、染みがつくことを怖れて過ごすのは嫌だから、色の薄い服は着たくない。
そのパターンで生きることは、たくさんの制限を生み出す。それに従うなら、あまり行動せず、自分の思考の中でだけ「完璧なわたし」である方がいい。「いつかきっとやればできるわたし」でいる方がいい。衣装懸命やって失敗したり、思い通りにいかなくて、現実をみるのがいやだった。未熟な自分であるという現実を思い知るのが怖かったのだ。

今だって怖い。
自分のダサさや「うわぁーーー!なんてことしちゃったんだろう!!!」と謝っても謝りきれない過ちに、打ちのめされるのはキツイ。おお「過ち」って過ぎるという字を書くんだね...「過ち」に気づいた時点でそれは過去のことだ。気づいた以上「今」は同じことをしない。さらにはその「過ち」が現在進行形だったときには、それを選ぶしかなくて懸命にそのときのステージを生きていたんだと知る。

そうそう、「今」このときのことだって、いつか「あれは「過ち」だったじゃん!!!」と思うのかも知れないのだ。いいね、上等だね。「過ち」ってもっと気軽にどんどん体験していい気がしてくる。もうこうやって書いているあいだに「過ち」の意味づけが崩壊しまくっている気がする。「過ち」ってなんかけっこううれしいことなんじゃないか?そうやって成長することこそ生きる醍醐味なんじゃないか?そう思ったほうがはるかにしっくりくるわ。いやーーー、現在進行形で、正しいとまちがいの二極が溶け合っていく...どっちも「体験」であり、同等だと思う。どんな意味をつけるか、何を感じて、何を学ぶか、どう生かすか。大切なのはそっちの方だ。

わたしが「正しさ」を望まなくなったのは、それよりも今ここに生きているかけがえのない「自分」を大切にしたいと思ったからだ。究極の自虐を体験して、わたしはわたしだけのものじゃないと思い知ったときから、ただひたすらに自分を育み、いとおしみ、理解し、慰め、癒し、労わり、敬い、慈しむこと。どこまでもどこまでもしあわせであること。それから自分の命を物理的に、日々、生かすこと、使い切ることが全体のためにできる、唯一究極のことだと思ったんだ。だから、いつも一生懸命に生きようと思ったのだよ。

わたしがほんとうに「大切」と思うことは、みんなにとっても「大切」なんだと思う。自他の境界線を消えちゃうと、世界はとってもシンプルだ。