LoveRocks

愛がロックする日々。感じたこと、思ったことを綴る。

「わたし」であることに責任をもつ <123/365>

犬、猫、「わたし」
これは中野で飲み屋さんをやってた頃、寅さんみたいなフーテンの常連さんがわたしに言ってくれた言葉だ。
犬、猫、ユリさん、と。

わたしたちは「人ってこういうもの」という前提があって誰かと接することが多い。
年齢とか性別、立場、職業などの上っ面から割り出される「標準」で話しかけられるとたいそう戸惑ってしまうことがある。
たとえば同世代の同僚から「今日も帰って家族の晩ごはんつくらなくちゃー、いやよねー?」とか「若い子はみんな同じ顔にみえるよね?」とか急に言われると「え!!!」っと思う。どう答えたらいいんだ...と。だいたいが「...ねえ(苦笑)」という反応になるんだけど、我が家は晩ごはん作りは義務ではない。面倒ならつくらないし、彼氏が作ってれることもある。そして、わたしには若い社員の子たち以上に、同世代のおねーさま方の顔の方が同じみえる...なんて言えねぇ...そんなおっそろしいこと、おいらには言えねーさー。

わたしは上っ面な前提で生きていない人が好きだ。こっちを枠にはめようとしてこないから好き。
異文化、異世代、異星(?)間交流が大好物なのだ。「わかるわかるーー」「ほんとそうだよねー」「わたしもそう思う!」みたいなコミュニケーションには関心がない。

そう、犬、猫、「わたし」
誰もがほんとうは、犬と猫くらいにちがう。オリジナルな存在だと思う。生まれ育ってきた環境も、感じ方も見方も好き嫌いも。輪廻転生があるとするのならば壮大な魂の歴史ごとちがう。生まれてきた目的からして千差万別なのだ。

わたしはそれぞれのテーマをもちながら、同じ時代の同じ国に生まれ、出会い、ともに過ごしている「今」を思いながら自分や人と関わることが好きだ。誰もかれもがかけがえのない、世界で1つだけの花、貴重な存在だと思う。そして、お互いにちがうということ、ちがうねー!と思い合うことこそが面白い。よろこび以外のなにものでもないと思っている。

わたしには今、コツコツと日記を更新することしかできないけれど、どんなことをどんなふうに書いてもうんざりするくらいに「わたしの文章」になる。書きたいことの根本は、いつも同じだ。たったひとつの書きたいこと、表現したいことをあらゆる角度からあらゆるテンションで、言葉で、現しているだけなのだと思う。体力、文章力、語彙力のなさにへきれきすることはあっても、「これを表現したい!」という想いが枯れることはない。だから、どんなに下手でも書きつづけるのだ。

わたしは「わたし」という宇宙でたったひとつの「個性」を担っている責任があるんだな、と最近思う。
天照大神が地上を去るときに残された「鏡」のようなもの。「鏡をわたし(神)だと思って日々磨きなさい」と。
鏡とは自分自身である。磨きあげるとそこにはあらゆるすべて(自分)が映る。