LoveRocks

愛がロックする日々。感じたこと、思ったことを綴る。

自分の中の「神聖さ」と向き合う <104/365>

夕方からさっくりと3時間だけの臨時出勤。
今日で9月の半分を皆勤できたことになる。いや、たいしたことじゃないだけど...ほんと、あたり前みたいなことなんだけど...自分で決めたことを、毎日コツコツと守りつづけることができていて、わたしはとってもうれしいよー!清々しい!神社の正中を歩んでいるような日々だ。こんなよろこびを知ることができて、ほんとうによかったと思う。ああ、すべての流れよ、ありがとう!ありがとう!!

実は、日記、皆勤のほかに、わたしにはもうひとつ、ひそかにつづけていることがある。
今日はそのことについて、初めて書いてみようと思った。

それは毎朝5分「祈り」の時間をもつというものだ。
ずっと以前に茅ヶ崎の洋子先生が薦めてくれたことで、まあ、なかなか定着させられなかったのだけどね、このたび「やると決めてやるのみ!」と決めたのだ。

「祈り」というと宗教的だったり、スピリチュアルなことをイメージするかも知れない。なんかあやしさを感じる人も多いことだろう。
実践してみて気づいたことは、わたしが祈っている「神様」はどこか遠いところにいるものはないということだった。自分自身のとまんなか、核心、本質そのもの、自分の中の究極の「神聖さ」に向って手を伸ばし、繋がっていくような行為だ。祈りは人として自然と備わっているまっとうな欲求なのではないかと思う。たった5分であっても、やるとやらないでは月とすっぽんどころか、毎日お風呂に入る人と、年に何回かしか入らない人くらいのちがいがある。マジな話だ。

今までこのことを日記に書かなかったのは、あやしいと思われるのが嫌だったからに他ならない。宗教やスピリチュアルと一線を画していたいという気持ちがある。なぜかというと宗教やスピリチュアルに傾倒する人たちの「ニセモノ」感が嫌いだからだ。
なんか「現実世界」を軽視するようなところ。「いいこと」とか「悪いこと」が決められていて「いいことをしないと悪いことが起こっちゃうよー」的に恐怖をあおるところ。それからひたむきに生きる人たちを「真理を知らないレベルの低い人たち」として見下しているところが嫌いだ...何を隠そう、これらは、過去のわたしがどっぷりとやってきたり、思ってきたことでもあって、わたしの人生の中の星の数ほどある「やらかし」の中で栄えあるナンバーワンとしてピカピカと輝いている。だからこそ嫌なのだろうな!

ほんとうのスピリチュアルであるならば、
今「現実世界」に生きていることそのものをかけがえなく思うはずだ。
日々のあらゆる事象がいとおしく、大切なことだと知るはずだ。
人として一生懸命に生きること、そして、同じように懸命に生きているすべての人たちへの同志愛があふれ出すはず!だって、みんな、いつかは死ぬんだぜ!人生の中で何を手にしようが、何を成そうが、すべてを失って老いたり病んだりして、この世界のすべてをお別れするんだぜ!そんな苦しみの世界に自ら生まれてきたわたしたちは、もれなく勇者だと思うし、それぞれが魂の計画、目的をもっていて、魂レベルで得たものは「全体」に響き渡る。そう、スピリチュアル界のてっぱんである「ワンネス」を体感すればするほど、自分と自分の現実をシャンとさせようと思う。

生きることは苦しみでいっぱいだ。
だけど、それを超えたところ、善悪も清濁も苦楽もぜんぶ、その二極をまるまるっと包み込み、それでもあまりある「神聖」としかいえないもの、それがわたしたちの正体だ。

自分の中の究極の神聖さへ、日々おごそかに向き合い、その資質を現実世界で使いたい。
最も本質に近く、神様に近いところから、最もどうしようもなく、ろくでもない自分を、まるごと1つに貫くの...その柱をわたしは「ロック」と呼んでいる。