LoveRocks

愛がロックする日々。感じたこと、思ったことを綴る。

今ここで思いっきり「しあわせ」になってしまえ! <101/365>

連勤中。
体がつかれてくると、思考がわーわー騒ぎやすい。
「もうつかれたよ...いつまでこんな大変な日々が続くのだろう。こんなに苦しいのならいっそ死...(自粛)」などなど。

そう、思考は過去の苦しみ、痛み、つらさ、失敗体験などを「体感覚」とともに鮮明に記憶している。
似たような条件が、苦しかった「体感覚」を呼び覚まして、セットになった過去の感情が発動する。この一連の司令官が「思考」だ。
そしてつねに未来を心配している。予想を上回る痛みを受けないように慣れ親しんでいる古き痛みで防御する。

今日はかなりへとへとだったから、まー、思考は大変な騒ぎだった。
やっぱりこれって生存本能みたいなものなのだろうね。
一生懸命に騒ぐ「思考」を、負けないくらい一生懸命に観察しているわたし。今日もいろーーんなことが見えてきたぞ!
自分の内側でなにが起こっているか、観察し、すべてを統括するのがわたしの生業です!

それにしても、嵐のような一連を、根気よくクールに観察していると、
思考の言いなりになることは、苦しくても中毒性があるような気がする。
懐かしき痛みに抱かれながら「不二子ちゃーーん!」と叫ぶことには、甘ーーいチョコよりも安定した魅力がある。遠くの親戚より近くの他人、かすかな本質よりも手ごたえのあるいつもの痛み(不二子ちゃん)なのだ。

観察する意識は中立である。
「おお、思考がこんなことやってんなーー!」と気づいているその隙間に、普遍的な青空が見えている。
それはアンコンディショナルな「しあわせ」というやつだ。
勇気を出して、今ここでそれを選ぶがよい。

なんの条件もないのに「しあわせ」になっちゃいけない気がする?
そんなことしたら、そこで打ち止めな気がする?
そんな思考は放っぽらかして、今すぐ掴むがよい。自らの意志でただ「成る」もの。それが「しあわせ」というものではないか!と、わたしは思う。

どんなにへとへとのへろへろであっても、ダメダメのよわよわであっても、「今」だけに集中して、確かに存在する限り、実はぜんぜん大丈夫。案外余裕。へっちゃらなのだ。
心頭を滅却すれば、火もまた涼し、疲れは心地よし、である。

こうしてわたしは、日々「やりきった感」をつみ重ねようと思う。
「よっしゃーーー!」と思うまでやりきって、その快感、成功体験を体に刻みつけて、思考の記憶を塗りかえてみせよう!
もしかすると、これこそがほんとうの「癒し」なのではないだろうか...!!