LoveRocks

愛がロックする日々。感じたこと、思ったことを綴る。

体はなんでも知っている <92/365>

今日は結論から言うと「人類」の生命力をなめちゃいかんなーー!!!と、強く感じた1日だった。

人は子どもの頃から「気をつけないと大変なことになるよ!」など、震え上がるような大人たちの脅しによって「車に気をつけよう」とか「見通しの悪い交差点では一時停止しよう」とか「かっこつけて高いところから飛び降りたりするのはやめよう」と思うようになったりする。
あとは「大人のいうことなんかしらねーぜ!」などと意気って、みずから危険に挑み痛い目に合い、人知れず「怖いかった...もうやめておこう...」と冷や汗を流し、学んだりもする。

子犬をしつけたことのある人、またはやんちゃな子を育てたことがある人はわかると思うのだけど、ああゆう類のことって、頭でわかるのではなく「体」で憶える、刻み込まれる、みたいな感じがあるよね。「反射」のようなものだ。あぶないことをしたらもう間髪いれずに、烈火のごとく怒らないと伝わらない、あれだ。
あとは、誰にも教わっていないのに、できるだけ安全に生きのびようとする「生存本能」が備わっていることもわかるだろう。
体は人が思っている以上に、生きのびるすべを知っている。危険を感知するし、未来を予知したりもする。

サバイバルな時代に突入した今、わたしたちは生きものとして、すでに「体」に備わっている「五感」とか「直感」のような感覚を、もっと重要視して、使って、鍛えていった方がいいような気がする。なぜなら、もったいないじゃん!と思うからだ。

以前、心理学の勉強をしていた頃に「なぜ人はネガティブなことを考えるのか?」ということについて、原始時代、洞穴みたいなところで暮らしていた人たちは、外で物音がしたら「野獣?それとも盗賊?」とネガティブな想像をすることで、怖れ、身構え、、アドレナリンを出して戦い、身を守ってきたからだという話を聞いたことがある。
たしかに「あらあら、なんの音だろう?誰か遊びにきたのかなー♪」なんてお気楽なことでは、すぐに死んでしまうにちがいない。

この話からもわかるように「思考が生み出すネガティブさ」は、本来自分や家族、仲間が安全に生きのびるために「使う」ものだ。あくまでも自分が「使い手」でいることを、忘れてはいけないと思う。

気づいたら自分自身がが「思考」に使われている、ということがある。
そんなバカな!と思うかも知れないが、ふつうにある。すごくよくある。今の時代あるあるである。(うざ...

洞穴暮らしの人たちが「思考」にばかり捕らわれていたらどうなるだろう...怖くて外に出られない。マンモスに食われちゃうかも知れないし、隕石がふってきて脳天に直撃するかも!うえた獣が群れをなして襲ってくるかもしれない!...ダメだ、洞穴から出たくない...家族がおなかをすかせているけど、行きたくないよーー、どうしたらいんだーー!など悩んだりしていたとは思えない。

彼らは知っていたと思うのだ。
人類がもつ、ほんとうの強さ、力、可能性というものを。

母の胎内で育まれ、ミクロのスケールから育ち、産道を通り自力で生まれ、自力で成長してきた、その生命力よ!
五感をもつことの素晴らしさ!舞瞬、奇跡みたいに営まれている生命活動の見事よ!それをなんでもないことのように感じるとしたら...「思考」に使われているぞ!錯覚してるぞ!洗脳されてるぞ!脳みそは単なる体の機能の一部なのだよ。正気になる必要があるんじゃないかと思う。

情報を得たり、どうやって身を守るかの検討に、思う存分頭を使ったらいいと思う。
不安とか、要らぬ心配、ネガティブな想像に捕らわれて、ふつうに頭が使えなくなっている人たちに、このところほんとうに多く出会う。

自分の「体」がもつ「生命力」を冷静に、きちんと感じてみたらいい。
コロナも、台風も、地震も、あらゆる天災も、わたしたちに襲い掛かろうとしている訳ではない。ただ起こっているのだ。
人類は何度もそういったことを体験し、その最中に自分として在り、力いっぱいに生き抜いてきた。
その祖先から受け継いだDNAを信頼したらいい。受け継ぐものとして生まれた自分自身をもっと信じたほうがいい。

今、これから起こることを怖れている人たちへ...あんまり弱ぶってんじゃないぞ!と言いたい。人類なめんなよ!

「思考」は「思考」だ。次々と心配なことを考えてしまったとしても、それを止めなくていい。無駄な抵抗だ。
わたしたちの正体はそんなこととは関係ない。まったく別のところに在るとこに気づいていればいいんだ。
どんな状況も、自分がいちばんほしいもの、気づきたいこと、体験したいことをもたらすため、自らが創っている。