愛はすべてを結ぶ帯 <74/365>
タイトルは、わたしが子どもの頃、実家の両親の部屋に貼り付けてあった言葉だ。
たしか長細い色紙に手書きで書かれていたような...言葉だけが鮮明に記憶に残っている。
あらためて調べたら、聖書の一節なのね。
コロサイの手紙の「これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である」というもの。
なぜ急にこの言葉を想い出したのか...
理由はわかっているんだけど、文章にするのはえらくむずかしい。
こむずかしくは書きたくない。
いつもの通り思いつくままに書いてみよう!
わたしは、自分自身を熱心に観察するうちに、人は「多次元多面体」であるなぁと思うようになった。
「あの人はこういう人だ」と思ったとしても、それはその人という存在の無数にある中の一面をみているに過ぎない。それどころか、みる側がみたいと思う一面を好き勝手にみているのだ。
「あの人はこういう人だ」と思ったその内容は、思った側自身の一面が反映されている。
人をどうみて、どう関わるかは、自分が自分をどうみていて、どう扱っているかがすべて現れる。
なので、以前のわたしは、あらゆる人をジャッジしていたし、自分よりも上か下か決めてかかっていたし、怖いから壁をつくり、レッテルを貼りまくって関わっていた。まんま自分自身をそう扱っていたのだ。(うう...ごめんよー)
それは事実であるけれど、ほんとうにほんとうに、そうだったかというと、決してそれだけではない。
わたしの中には、いつも無条件で自分と人を信じきっていて、命を賭けても足りないほどに愛していて、もう狂おしいほどに、すべては「ひとつ」だと叫ぶ想いが、柱みたいにどまんなかを貫いていた。
ぜんぜんレベルがちがうものが、自分の中に確かに存在している。
たとえば満員電車のドアが閉まる寸前に、汗だくの中年サラリーマンが無理やり乗り込んできたりする。ソーシャルディスタンスも保てず、サラリーマンの身体からは湿った汗の熱気が伝わり、息を切らせているためはあはあと呼吸音が半端ない。「こいつが乗ってきたせいで不快指数MAXじゃねーか!こいつさえいなければ...(怒)」と思う。これは100%正直な気持ちだ。だけどそれがすべてではない。
そのサラリーマンを「いたましく想う心」が別次元にはたしかにあって、それもほんとうの気持ちだ。
「この人も一生懸命生きているんだろうなぁ!すげえ汗臭いけど、嫁とか娘とかいるとしたら...うざがられてないかなぁ。娘から「お父さんのパンツと一緒に洗濯しないで!」とか言われたりしてるのかもな。この人のお母さんがそれを知ったらどう思うんだろう。大切な息子が嫁や娘にウザイとか思われてたら心が痛いだろうな。ていうか、このおっさんも誰かにとってはかけがえのない存在なんだろう...生まれたときご両親はよろこんだんだろうなぁ!」的なことを一瞬にして妄想して「おっさんよ...!お互いにがんばって生き抜こうじゃないか!(涙)」みたいな、完膚なきまでの同志愛があふれ出す。
そのさらなる奥には、もっと無償の、言葉にならない愛がある。
「ああ、おっさんよ、そこにいてくれてありがとう!!」的な想いがある。
伝わるだろうか。どうだろう。
「人類みな兄弟」な感覚って、ほんとうはみんな心当たりがあるのではないか。だから被災地に向わずにいられなかったり、線路に落ちた人を、瞬発的に命がけで助けたりするのだろう。
なんかね、内奥にたしかにあるこの「愛としかいえないもの」を、今こそ表面に出しちゃっていいんじゃないかと思うのだ。
生きものとしての「自分がだけがいちばん大事」みたいな、頭がつくりだした決め事はそのまま置いといて。そこにでっかい風穴を開けたい。
多次元で多面体である自分を認めよう。
自分のもつすべての面を完全に結ぶもの、それが愛であるのなら、今ここに生きるわたしのちっぽけな心臓に、そのぜんぶ集めようじゃないか。今ここに、いちばん大切なことを現していきたい。