LoveRocks

愛がロックする日々。感じたこと、思ったことを綴る。

『現実』を生き『高み』をめざす <1/365>

今日から1年365日、日記の毎日更新を目指して、タイトルにカウンターをつけた。

【宣誓ーーー!わたしは今日より1年間、毎日欠かさずに日記を更新することを、ここに誓います!!!!!】

ほんとうは少し前から「毎日日記を書くことに挑戦したい...そう、できれば1年くらいは...」と密かに思っていたのだけど、怖くて「宣言」できずにいた。あわよくば「宣言」せず、逃げ道を残したままで「あーーなんか気づいたら毎日書いてますわー、早いもんでもう1年ですわー、わー自分でもびっくりーー!」などどクール(?)に言ってみたいともくろんでいた。

なぜなら、「かっこよく「宣言」したのにできない」ということ以上にダサいことはないと思っていたからだ。
「宣言」してしまったら最期、「なんか忙しくて更新できませんでした!てへ♪」とは決して言えまい。
物理的にどうしても更新ができないこともあるかも知れない。不安要素は限りなくある。
それに、日記に縛られるのはごめんだ!窮屈だ!不自由だ!そうだそうだーー!と思っていた。

『結果を出す』『責任をとる』ことを誓ったわたしは、
「いやいや『できなかったら』とかないから。だって『やる』だけでしょう」と思う。
やりたいなら、やれるように、あらゆることを変えていく。自分から手を伸ばし続け『結果』をとりにいくことがイメージできる。ほしい『結果』の方向に、すべてを向けていくことができる。そのまっすぐな「道」が見えるから「歩くのみ」と思えるのだ。

こんなことって...昨日まで想像もできなかったのに、この劇的な変化は一体なんなのだろう...!

そこには、とてもシンプルな仕組みがあると思うのだ。
その核心にどこまで迫れるかわからないけど、今日のわたしが気づいたことを書いてみたいと思う。

『結果を出す』『責任をとる』と決めて、自分の意志で『行動』を変えて、いちばん最初に感じたことは、
「ものすごーーく安心した!」ということだった。
この日記をはじめたときも同じようなことを感じたのだけど「ああーこれでいつ死んでもいいわー」と思った。
「やる前に死ななくてほんとうによかったーーー!」という想いでもある。

この言いようがない「安心感」はどこから来ているのだろう、と考えてみると、
「生まれて初めて、ほんとうに進みたかった道を【現実的に】自分の「意志」で歩きはじめた」という手ごたえと、よろこびなのだろうと思った。

それは『過去』のあらゆる経験に裏付けされて創られた『自分ルール』と、真逆の選択をしたことがきっかけになっていると思う。『過去』と一切関わりがない、いまだかつてない『選択』をしたということで、強靭な『自分ルール』が「え!なに、なに、なに!!!」となってできた隙間から、ピュアピュアの「幼子」のような、真新しいわたしが【現実】の世界に出現した感じだ。

【心を入れ替え『幼子』のようにならなければ、決して天の国の入ることはできない】(マタイ伝)

『幼子』のようなわたしには、とても大きな『こころざし』があることがわかった。
どこまでもどこまでも、自分として、できる限りの【高み】をまっすぐに目指しているのだ。
成長のためなら、茨の道をも裸足で歩き「痛そう...って、嘘でしょ?意志をもって受ける痛みはよろこびだよ。まさか、そのために生まれてきたこと、忘れちゃったの?あははははーーー!」と言い放つ。

【求めよ、さらば与えられん】
『求めるもの』『望むもの』『目的』が明確であればあるほどに、それを【現実】にするための道はシンプルに、はっきりと見えてくるのだと思う。
そして、最後に、
実はいちばんのポイントかも知れないと思うのは、わたしが選択した道が、現実的な意味においても『王道』だということだ。
『継続』『忍耐』『責任をとる』なんて、誰もが知っている「立派な大人の条件」ではないか!
だけど、わたしはどんな「ワーク」や「瞑想」でも、こんなに実感を伴った「ワープ」を体験したことはなかった。
『王道』とは、往々にして、大人から子供まで、誰でも知っているような【現実】の中にある。決して隠されてはいないのだけど、きっと「幼子のようにならなければ」見えないのだろう。そして、自分の力で掘り当てるからこそ、かけがえのない『宝』になるのだと思う。