LoveRocks

愛がロックする日々。感じたこと、思ったことを綴る。

すべて開いてみせてごらん、そして、咲き誇れ!

長引くPMSの波にゆらゆらと揺られる日々。
気づいたら1週間以上も日記を更新していないではないか・・・おぉ、なんということだ・・・!

弱っている時は弱ったまま、
ダメダメな時もそのままに開き、書き現し続けていこうと改めて誓う。

そう、「ダメダメ」と書いていて思ったけれど、
この「ダメ出し」は、ほかでもない、自分が自分に下しているジャッジに過ぎない。

客観的に、自分を他人としてみた時、
いつ終わるとも知れない体調不良の中、仕事にいけたりいけなかったり、気持ちが上がったり下がったりしながらも、
自分を見つめ、今をひたすらに生きている人に対して、「おまえ・・・ほんとうにダメダメだな、がっかりしたぞ!」などと、無情な言葉で責めることができるだろうか・・・いいえ、できるまい!

人のことならあたたかい気持ちで見守ることができるのに、自分にはそれができないのは、シンプルに「客観性」を失くしているのだと思う。「客観」という言葉を使うと、非情で冷たいイメージを持つ人もいるかも知れないが、
わたしは勝手に「客観」イコール「魂の観点」という意味づけをしている。

一般的に使われている「客観性」というものを、本気で実践してみようとするなら、まず、「客観」の「客」って誰だよ!と思わないだろうか。
親の観点、恋人の観点、尊敬する誰かの観点・・・誰をあてはめてもそれらは「自分が好き勝手に想像した誰かの観点」という枠を超えない。それってけっきょくは「主観」じゃないか!というパラドックス

人は「主観的」になると、自分の「思い込み(過去由来)」と、そこからくる「感情(実は過去由来)」によって、濃厚に色づけされた世界しかみることができない。

そうだそうだ!主観的になってはダメだ!客観的にならねば!と言い張る、その思いこそが「主観」だ。
そうなると、たまねぎの皮をむくみたいに、もうどこまでもいっても「主観」しかないのでは!と思うくらいの強烈な色彩に惑う。

ていうかさーー、その色彩はここまで懸命に生きてきた軌跡じゃないか。そのままでいいじゃん!と、わたしの「客観」は思う。

「客観」には、正しいとかまちがいだとか、いいとか悪いとか、一切の判断がない。
ただ、生きている姿をいとおしく見守り、統べるものの観点だと思う。

魂の観点(客観)は、どこまでも透明で、どこまでもあたたかい。
そして、ほんとうの「厳しさ」をあわせ持っている。
「魂」は、わたしの「中心」であり、源であり、この上ない真実、唯一無二の主君、リーダー、いや、「大殿様」だ。
さすれば、わたしの身も心も、生活も、日常も、つま先から髪の毛の一本一本まで、すべてで従い、ひとつになって咲き誇ろうではないか!

ああ、どうしても大河ドラマが抜けない・・・そして、久しぶりのせいかバリバリ力入っていて恥ずかしい。
明日以降も、すべてを開いて書き現していこう。そう、自分を咲き誇るのだ!