LoveRocks

愛がロックする日々。感じたこと、思ったことを綴る。

引きこもりの日々に「魂」の話をしよう

自宅待機11日目。
東京は絵に描いたようなレイニーデイ。
降り過ぎることも降りやむこともない完全無欠の「雨の日」だ。

昨日「命を賭けることへの憧れ」について書いた。
焼肉を食べる前のテンションで、勢いでバーーッと書かれた文章を読み返してみて、さらに感じたことを書いてみたい。

「命を賭ける」ことをたまらなくかっこいいと感じるのは、それが「無私」だからなのだと思う。
損得や保身を一切考えていない、純粋な想いからくるものだからグッとくるのだ。
この「グッとくる」感覚は、「心」ではなく「魂」の感覚だと思う。「魂」がこもったものだけが「魂」に呼びかける。

「魂」は「心」のもっともっと奥にある、自分自身の本源だ。
生きている人間としての自分が映画の中の主人公だとするなら、どういった映画にするかを決め、脚本を書き、演出、監督するのは、自分の「意識」であると思う。「魂」はそのすべての「生みの親」という感じだろうか。

うーーーん、あまり整理ができていないが、シンプルにいうなら、親がいたから子供が存在し、その人生があるのと同じこと。人に「魂」があるのではなく、「魂」が人として生まれ「身体や心を持って生きるということを体験している」というのが真実なのではないかと思う。

神社や日本の歴史が好きな人ならご存知と思うが、大本命のご神体を奉っている「奥宮」はとても密やかに隠されていて、リスクを冒したり、途方もない道のりを乗り越えないとたどりつけないこともある。
同じように、わたしたちにとっての「魂」も、本当は何よりも近いところにありながら、あえて隠されているのではないかと思う。
そして、人は自分という存在のほんとうのスケールや、尊さ、力強さ、無限の創造性を忘れて生きていくのだろう。それが、自分の本源である「魂」を見つけるための道のりなのだとしたら、わたしはすべてのプロセスを決して省略したくないと思う。痛みも哀しみも、孤独感もすべて、今だから味わえる1つ1つを、大いに体験しながら邁進したいと思うのだ。

「命を賭ける」というテーマからは果てしなくそれたけれど、わたしが今後の人生で、もしも「命を賭ける」という体験をするのであれば、それは自分の核心「魂」に本気で向かう体験であると思う。そこに向き合う時は、身体の死を含めた、損得、保身は意味を成さないと思える。「無私」でしかあり得ない。神様の前で着飾ることに意味がないのと同じように。

自分に向き合うことは、自分の本源、「魂」に向き合うこと。
そして「魂」に向き合うこととは、そのまま「神」に向き合うことと同じなんだと気づく。
だからわたしはそれをやめられない!