LoveRocks

愛がロックする日々。感じたこと、思ったことを綴る。

地球への愛を叫ぶ~引きこもり日記

自宅待機12日目。

東京はさわやかな夏日。
夏の匂いに反応して、心と体が自然にゆるゆると開放されていく。
力が抜けて、開いていくほどに、わたしという「生き物」がもともと備えもっている力が湧き上がってくる体感がある。
それは、地球とともに豊かな自然の一部として、ただ生きるという、とてもプリミティブな感覚だ。

東京で生まれ育ったわたしにとって「自然の中にいる記憶」のすべては旅先での体験だ。
日常でふれ合わない分、それはとても強烈に残っている。
誰もいない海に全身をゆだねて、溶け合うことの自由さ。命ごと受け入れられているような、尽きることのない安心さ。
圧倒されるほどの満天の星空と漆黒の暗闇、激しい夜の波と風と、その全部に包まれることの怖さと優しさを。

頭の中ではなく、細胞が憶えているような記憶。
このあまりにもでっかく、あまりにも丸い、大ーーーきな地球の愛の中で、わたしはただ大いに生きて、時が来たら死のうと思った。生きることのどこにも不安や怖さはなく、生まれてきてよかったなーーーーと人生で初めて、体中で思った。

そう、わたしは「地球」が大好きだ!!!
地球にはぐくまれ、生きるエネルギーをもらっていることを感じているし、人として生きる自分を「地球の一部」だと思っている。

そして「地球を守ろう」的なことを声高に叫んでいる人たちに出会うと、心のどこかで「おまえら、正気か!」と思う。
「地球」っていうのは、我ら人ごときが、壊したり守ったりするレベルのものではなかろうが!と思うのだ。
一体どこをどう切ったら、人が地球をコントロールできるという発想が出てくるんだろう。「守る」とか上から目線でいわれると「どの口が言ってんだ!」と思う。最初から最後まで、地球に守られているのはわたしたちの方だ。


わたしたちは生まれてからかなり早い段階で「自分は弱い」と強烈に思い込む体験をするのではないだろうか。
そして、自分や人や、自然や、地球に対しても、まんべんなく「弱きもの」として扱うくせがついているように感じる。

わたしは「自分と向き合う」ワークをしていく中で、長い間、とっても苦しみながら「自分のダメさ」と向き合っていた。
大前提として「自分」という存在を「無力で、無価値で、どうしようもなく弱きもの」として扱っていたのだ。

その「大前提」に気づくまでは、あらゆる人や事象も、自分と同じように「弱きもの」という色眼鏡でみていたな、と思う。
「どうにかしなくては!」といつも身構えていたし、カウンセリングをしていた頃は「弱い人たちをどうにかしなくちゃ!」と、スーパーおせっかいなことばかりしていた。うう、黒歴史だ・・・。自分も、人も、時の流れも、この世界の何もかもが、信頼できなかったし、ぜんぜん「大丈夫」と思えなかったのだ。

ワークをすすめる中で「大前提」はどこまでも流動的になって、「ここまで懸命に生き抜いてきた、愛しく、力強き自分」という前提や「人類の中の1人の人」としての自分、さらには「自然の一部」「地球の一部」「宇宙の一部」としての自分などなど、自由自在に「前提」を変えながら、自分をみるようになった。

どうせ、「前提」という色眼鏡をかけるのなら、自由で、力が湧いてきて、夢と希望を感じるものをかけたらいいじゃん!と思う。
そのほうがしっくりくるし、世界がクリアに見えてくる。
そして「色眼鏡を外す」ということもできるようになるのだよ!
何もかもを外して「自分」をみる時、地球みたいにでっかく、丸く、人ごときが頭で考えてコントロールなどできるはずもないスケールの、底知れない力強さを感じたりするのだ。ああ、面白い!

「自分は弱い」という思い込みは、多くの人にとって最強にして最大のラスボスであるように、わたしは思う。
どうしようもなくちっぽけで、いやらしさ、汚らしさを持ちながら、ほんとうは、どこまでもどこまでも強く、無限の可能性を秘めた、神の一部である自分とちゃんと向き合っていきたい。「弱さ」や「ダメさ」は充分に体験したから、これからは「強さ」や「すごさ」をめいっぱい体験しながら生きていきたいと思う。