LoveRocks

愛がロックする日々。感じたこと、思ったことを綴る。

枠を超えていく!「あきらめる」ということ

奇人変人聖人日記、4日目。

今日は「あーーーー・・・なんか書かなきゃ・・・」という気持ちでいっぱいだ。
生理前の体調不良もあって、テンションがガタガタに落ちている。
ご飯もつくる気にならないので、夕食は大好きなインドカレー屋さんをテイクアウトすることに決めた。インドカレーのこと考えると、すでにワクワクしてくる。女ってやつはまったく!

気分やテンションは、天気のようなものだ。刻々と変化する反面、変わらない時はどうしたって変わらないのが自然だ。どんなに激しい雨が降り続いても「早くやむようにがんばろう!」などとは思わないように、ローテンションな自分をどうにかしようとがんばらなくていいのだと思う。

雨の匂いを味わうみたいに、ただ、ローテンションな自分を味わえばいい。


さて、今日はせっかくのローテンションを生かして、すこし真面目なことを書いてみよう。

昔のわたしは、今とは間逆で、とにかく自分をコントロールしなくては!と必死だった。
暴走してしまわないように。奇人変人聖人がばれないように。野放しにしたらどんどんダメになってしまうような気がしていて、いつでも手綱をぎゅーーーと握りしめていた。今思えば、そんなにも自分自身に信頼されていないなんて、どれほど可哀想なだったことか。
絶望したこと、立ち上がれないほど傷ついたこと、もう生きれねえ・・・と思ったこと、全ては「自分自身に見放された」ことによるものだった。

なので、いつも自分の顔色を伺って生きていた。とても窮屈だったけど、ちゃぶ台をひっくり返して家出する訳にもいかない。たとえ世界の果てまで逃げようとも、自分自身からは逃れることができないんだもの!

このように書くと、すごく真面目な人生を送ってきたみたいに思うかもしれないけど、逆だったんだよね。我が人生の基本ルールの1つに「真面目にやるなんてカッコ悪いぜ!」というものがあったのだ。コツコツ努力したり、我慢するなどもってのほか!そんな時はちゃぶ台をひっくり返して家出することこそ「よし」とされていたのだ。

「一般的な常識にそって生きなくてはいけない」というルールを持つ人が、その「枠」を壊すというのはとても勇気のいることだと思う。わたしはその逆バージョンではあるけれど、どちらも同じ、「枠」は「枠」だ。

「自分の「枠」に気づいたのなら壊せばいい!超えればいい!」なんて、言うのは簡単だよねーーー、そんなことができるなら、とっくにやってるわ!と思っていたし、超えようとするほど高くなり、壊そうとするほど強靭になる。唯一、自由になる方法があるとしたら、「あきらめる」ことだ。

ここで、「あきらめちゃダメ!」と思う人は多いだろう。「負けないで、もう少し、最後まで走り抜けて!」と。(ZARD参照)

日本語で「あきらめる」はマイナスの意味でつかわれることが多いけれど、仏教用語では〔明らかに観る。ものごとの真実の姿やありさまを観察して、はっきりとさせる〕というような意味で使われる。これはずい分前、カウンセリングを学んでいた先生に教えてもらったことだ。

言葉の力ってすごいと思う。ずっと知っていたはずの言葉の核心に、一番ほしかった答えがひっそりと隠されていたりするのだから!

それから長い時間をかけて、わたしが本当に「あきらめた」時、あれほど強敵に思えた無数の「枠」たちは、わたしにとってかけがえのない「宝物」なのだと知ることになった。そのプロセスについては、また改めて書いていきたいと思う。