LoveRocks

愛がロックする日々。感じたこと、思ったことを綴る。

自分で仕掛けた「制限」を超えていけ <132/365>

今日はお昼まで仕事をして帰宅。
プライムビデオで「火の鳥」を観ながら寝落ちする。いやーーん、4時間も寝ちゃったじゃないか!
ホルモン減少気味なお年頃のせいか、季節の変わり目か、最近いつも眠い。眠さにまかせて眠れることのしあわせよ...そして、親友が送ってくれた熟トマトたっぷりのミートソースを煮込みながら日記を書いている。しあわせだ...料理が好き、食べることも好き、それから文章を書くことは大変だけど、たぶんもっともっと好き。だけどそれよりもなによりも、ダントツで大好きなのは「生きる」ことだ。自分として今ここで生きるということだ。大変だけど、めんどくさいけど、果てしなくつかれるけど大好きだ。

お昼寝明けのぼんやりした状態でそんなことを思っている。
今日はぼんやり状態を活用して、思いついたままに書きたいことをどんどん書こう!(あ、いつもそうか!)


わたしは今まで「がんばらなくていい」とか「むりしないでね」みたいな言葉がぜんぜん理解できなくて「うーん、どうして人様がやっていることに水をさすのだろう...」などと思っていた。昨日の日記にわたしは「がんばらないことをやめて、1からがんばることをはじめた」という体験を書いた。そして、書きながらうっすらと気づいたことがあった。

ははーん...さては、一般的にいっている「がんばらなくていい」の「がんばり」とは、今の自分じゃダメだからよくしようとしたり、自分以外のものになろうとしたり、ほんとうにやりたいことじゃないけど、思考パターンの反応でやるしかない...みたいな、すごく大変で、もうむりの中のむり、「キングオブむり」みたいな行動とか習慣のことを言っているのだな!と(長!)。

その観点からみると、
わたしはがんばることをはじめたことで、ほんとうのところでは「むりをするのをやめた」とも言える。紛らわしいけど「がんばるのをやめた」とも言えるのだろう。

今の自分がいいとか、ダメだとか、人からこう思われたいとか、認められたいとか、存在価値があるとかないとか...そういうレベルの諸々が光陰の彼方に吹き飛んでしまうくらい強烈に<わたしはわたしを生きる>ことをはじめたのだ。正真正銘のわたしとして、今ここにある現実を「自分自身がつくっているもの」として引き受けて、責任を取ること決めたのだ。

なので今わたしがやっている「がんばり」はおそらく一般的なイメージの「がんばり」とはぜんぜんちがうのだろう。
わたしの中の「がんばり」の大半は「なまけ心」との戦いだ。さらにいうと「眠気」との戦いともいえる。朝このまま寝ていたい、仕事にいきたくないという衝動を打ち倒し、夜は体力を使い果たして「ふとんに入ったら秒で寝れるぜ」というコンディションで家事をしたり日記を書いたりしている。眠くないときは「やる気が出ない」とか「そんな気分じゃない」との戦いだ。そして、その行為自体がたまらなく面白い。何度も書いていることだけど、その面白さの根源は、自分で設定した自分自身のリミッターをぶっ壊す行為だからだ。その解放感と爽快感は半端ない。

わたしはゲームも映画も旅行もお洒落もグルメもいらない。インスタ映えなんて知らない。ハッシュタグとかわからない。ロックダウンになろうが、ステイホームだろうが、天災に見舞われようが、病気になったりどんなに年をとってもノープロブレム!揺るぎなきこの面白さよ!それは自分自身の現実に起こることすべてをステージにした、あくなき大冒険である。

この地球、この世界、この現実の中で、出会うべく人と出会い、あらゆることをみたり、聴いたり、味わったり、感じたり、体感するすべてがその内にある。泣いたり笑ったり怒ったり哀しんだり、できる限りを正誤にとらわれず、豊かに体験して生きるのだ。自分の人生を生き切るのだ。この世界で何者かになったり、何事かを成したりすることに大した意味はないんだよ。ぼくらの魂は、実はそういうことを望んでる訳じゃないと思う。

制限を体験すること、それを自力でぶち破り自由になること。自分がもっている無限性を取り戻して、永遠性を想い出すためにすべて、自作自演で制限を創りだしている。だとしたら、それに気づけるかどうかだけが無条件のしあわせ、面白さ、よろこびに繋がる扉であると思う。自分で仕掛けたトラップにはまって生涯を終えるも、それもまた一興。存分に生きること、楽しむこと、遊ぶことを魂は望んでいるんじゃないかな!

さて、絶品過ぎてやばいミートソースを堪能しよう...今宵はこのへんで!