LoveRocks

愛がロックする日々。感じたこと、思ったことを綴る。

本来の自分へ向かう旅、または、Going Home!

自宅待機7日目。

ちょうど1年前の今頃も、同じように仕事にいかずに引きこもっていたなーーーと、想い出す。
今日はその頃に体験した「大転機」について書いてみようと思う。

はじまりは、当時お世話になっていた、魂の学びの先生が出してくれた「最後の宿題」だった。
内容は「自分のこれまでの人生をふりかえって、悪いことをしたと思っている人、謝りたいと思っている人に、心の中できちんと謝罪をする」というワークだった。

わたしは、過去を振り返ることに、ものすごく抵抗があった。怖いし、嫌だし、どうにかしてやりたくない。逃げ出したいと思った。いやいや、そんなことをしたら、自分の内側が、全部、ガラガラと崩れ落ちてしまうのではないか!と、命の危機を感じるレベルの怖さを感じた。いや、大げさではなく、ほんとうに!

そして、「最後の宿題」に取組んだ1~2ヶ月くらい間、わたしは、想像した通りにボロボロの粉々になる。

今まで「自分の人生は、波乱万丈ではあるけど、自分で選んできたことだ。悔いはなし!」と思っていた気がする。なんという錯覚だったのだろう・・・本当は、過去のあらゆるすべてを激しく悔やんでいるし、ほとんどぜんぶが失敗だったと思っている。出逢った人たち全員に、謝っても謝りきれないくらいに、申し訳ないと思っている。
わたしは一体どれだけ、自分を正当化し、誤魔化し、嘘で塗り固めていたことか・・・!

そのことを認めるまで、のた打ち回るほど苦しかった。どーーやっても逃れられない苦しみだった。もう、どっぷりとはまり込み、ただ苦しむしかできない。そして、心が砕ける散るくらいに悔やんで、悔やんで、悔やみまくって、家族をはじめとするたくさんの人に、泣きながら謝り続けた。

仕事にも行けず、毎日引きこもって、ひたすら人生が失敗だったと悔み、あらゆる人たちに泣きながら、謝罪を繰り返している自分。そんな自分が耐えられないほど嫌だった。人として終わってるし、ダサいし、クズだし、生きている価値もない、どーーしようもなくダメなやつだと、自分を責め、罵り続けた。まちがいなく自分史上最大レベルの徹底攻撃だったと思う。今までも同じような理由で自分を責め続けてきたけれど、それはまだまだ手ぬるかった。きっと「あんまり責めると絶望して、死んでしまう知れない」という生命維持装置が働いていたんだろう。この時はそれすら木っ端微塵だった。

すごく長い期間そんな状態だった気がするけど、今思うと2、3日くらいかも知れない。
わたしはだんだんそういう一連に慣れ、少し距離をおいて、悔やんだり、苦しんだり、自己嫌悪を極める自分を眺めるようになってきた。

心の中の謝罪も変化してきた。
はじめは「自分の最低さによっていかに迷惑をかけたか、傷つけてしまったか」というような「自分のダメさアピール」がメインとなっていたが「本当はどうしたかったか、どう関わりたいと思っていたか」を伝え、それができなかったことについて謝罪するというものに変化していった。その方がしっくりくるし、謝る対象に伝わるような感覚があった。さらには、対象からの「返答」を感じられるようになってきた。それは言葉ではなく、大きな大きな、「愛」としかいえないエネルギーだった。

わたしは、今まで出会った人、家族、友達、知り合い、すべての人とほんとうは「真心」をもって、正直に関わりたかったんだ。すべての人を大切にしたかったし、言葉や行動の全部でそう伝えたかった。誠意をもって関わりたかった。それがわたしの望みだった。「でもね、わたしは弱すぎてそれができなかったんだ。本当にごめんなさい」と一切とりつくろうことなく伝える時、その対象との間に「絆」が生まれる感覚がある。その「絆」の中では、すべての出来事が「おたがいさま」であり、合意の上で起こった出来事だったように感じはじめた。

大好きなのに全然会いに行かないまま死んでしまったおじいちゃんや、大切な時期に1人で淋しい思いをさせてしまった息子、それから、悪役として出会い、そこに徹してくれた人たちも、みんなみんな、出逢ってくれてほんとうにありがとうと思った。こんなにも悔いが残るほどに、傷ついたり、傷つけさせてくれたことは、一体どれほどの愛であることか・・・!

失敗なんてなかったんだ。ていうか、失敗なんて思うこと自体、わたしの思い上がりだったと思う。
人が生まれ、生きていく中で、別の個性同士として出会い、お互いにとって適切なことがただ起こり、別れ、また出逢あう。それはあまりにも壮大なスケールで悠久の昔から起こり続けている「流れ」だ。わたしごときが全力でバカをやらかしたとしても、ビクともしない「信頼」と「絆」がそこにはあるのではないか・・・ていうか、わたしたちはこの大きな「絆」の中でひとつなんじゃん!

 

そして、魔法のような体験した。
それは、今、ここで「生きている自分」を「1人の人」として、完全に外側から見ている体験だった。
まるで「急に死んでしまい、肉体から離れたところにいる自分」が「今、生きている自分」を見ているような感覚だった。直向に、健気に「あらゆるすべてを大切にしたい」と望み「でもできなかった!」と傷つき、自分の弱さや未熟さを責めている自分。それでも懸命に生きている、愛しくも力強い、自分の姿をみた。

ああ、もっとも謝りたい相手は、他でもない、自分自身だ!
いちばん近くにいて、いちばん見えていなかった。
わたしがいちばん真心をもって、正直に関わりたかった相手、大切したかったのは「自分自身」だった。


「大転機」と銘打って書いてみたけど、今思うと、これは「自分の人生」という舞台から降りて、何も演じていない「素」のわたしに戻った体験という感じもする。
この体験以前と以後では、ものすごく変化したけれど(内面のことね)、生きている限り「人生劇場」は続いている。日々泣いたり、笑ったり、舞台だということなんかすっかり忘れて、くっそーーーとか思ったりしながら生きているのだ。
だけど、今のわたしは、その舞台を外から眺めている「わたし」がいることを知っている。舞台の上でどんなことをやらかそうとも、すべては「わたし」という総監督の手のひらの上で起こっていると思える。

I Believe Myself!!
それから、ファザー、マザー、ブラザー、フレンズ、インドの隣のマスターもーーーーおりゃーーーー!!!!
(参照「ガンジス河でバタフライ」)