LoveRocks

愛がロックする日々。感じたこと、思ったことを綴る。

無限大の自由の中で <274/365>

最近、息子は、道でナンパ(?)された謎のアジア人たちの無国籍バンドでギターを弾いてるらしい。
音楽はフィーリング、ルールご無用、その場のノリで楽しくやりたい派の息子に対して、他のメンバーたちは一音一句、完璧にコピーしたい派らしく「なんか、甥っ子のバンドにヘルプで入ったような感じ」なのだとか。まーシンプルにいうと「面白くはない」ということね。そーかそーか。

「面白くないならやめちゃえばいいのに」という考え方がある。いやはや、親心的には心から楽しいと思うことをやってもらいたいという願いが沸き上がる。
息子はそれを「がんじがらめ」だという。面白くないことを我慢してやる「がんじがらめ」も、面白くないことしかやってはいけない「がんじがらめ」も、どちらも同じく「がんじがらめ」だと。

すげーな息子よ。かーちゃんは50年近く、その「がんじがらめ」のスパイラルを行ったり来たりしていたよ。そして、今もまさに「どんなことでもいい経験になるからやってみたらよい」という、さらなる「がんじがらめ」が沸き上がってきている最中だぜ…。

終着点は、「がんじがらめ」でも、そうじゃなくてもどっちでもいいよ。という境地だと思う。

わたしは生きている限り、いつも何らかに「がんじがらめ」なのかも知れない。ひとつの「がんじがらめ」を抜け出したところは、次なる「がんじがらめ」の手中だったり。尾崎豊が歌っていたように「あと何度自分自身、卒業すれば、ほんとうの自分にたどり着けるだろう」という苦しみのスパイラル。「がんじがらめ」を拒絶するがゆえに、最強の「がんじがらめ」が発生するというクライシス。

出口は、全面降伏にある。
逃げず、戦わず、抵抗せず、仏のように大いなる手のひらに「がんじがらめ」を乗せて、ゆったりと眺める観点だ。善悪、正誤、清濁を越える。二極の区別なく、どちらも受け容れる。
それは「魂」の仕事だから、思考が入ると越えられない。だけどその境地は、遠いところにある訳じゃない。遥か上空にもない。たえず考え続け、動き続ける、自分という車輪のどまんなかにある、決して動かない軸のようなもの。ほんとうは、いつだって、いちばん近いところにある。

それにしても、これだけ「がんじがらめ」を連発していると、ゲシュタルトが崩壊してくるね。マンジガタメ?ヨンノジガタメ?プロレス技?みたいな感じで、なんだかすべてがお遊びのように思える。
わたしたちは「がんじがらめ」になって遊ぶほどの、無限大の自由を生きているのだなぁ!